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待ってました、NHKさん

こんばんは。
ボルトと同じくらい上背があれば、何をやっていただろう?と考える今日この頃な、企画・設計室です。

あまり更新できませんが、もちろん本業をしっかりとやって.....いえ、いえ、言い訳はやめましょう。
今宵は、そういう言い訳しない「カッコイイ男」を紹介したいと思います。
これ、連載します(もちろん次回は、未定ですが)

さて記念すべき、第一回目(いや一人目?)は、この方。『某リーマン.com調査で最も憧れる男:第一位』白洲次郎です。


まずこの写真を
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白洲次郎 49歳。白いTシャツにジーンズ。

かっこよすぎます。しかし、彼のかっこ良さは外見じゃないんです。
中身、中身!(しかし外観もいい.....)ご存知の方も多いですよね。

昨年、ワタクシ、「プリンシプルのない日本」
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と、「白洲次郎,占領を背負った男」
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を読みまして、結構やられました。
(ワタシの友人は「白洲正子の旦那」って程度しか知らないと言ってました)


白州次郎って方は、原則というか、彼の中の正しい行いとでも言うか、そういうものに習って生きた方です。英語で言うところの『プリンシプル』ってものを大事にしてたそうです。

『プリンシプル?』

これについては、ご本人の言葉が残ってます
プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか.....西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。
日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい』(「諸君」昭和44年(1969年)9月号)
(ちなみに彼は怒ると英語になったらしいです)






さて、簡単にwikiを参照しながら経歴を。
注意思いが強いせいか、ここから先は非常に長くなってしまいました!しかしながら、一人の男を紹介するのには、必要なものばかりだったので、どうかこらえてくだされ。
ですが、次に点線----が表れるまで、飛ばして読んでも大丈夫ですv


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1902年(明治35年)2月17日:
兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。
後に兵庫縣川邉郡伊丹町(のち伊丹市)に建築道楽の父が建てた邸へ転居。
こういう建築道楽の方を身内でお知りの方は、三枡建設㈱にご連絡ください


1919年(大正8年):
旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)時代は、サッカー部・野球部に所属し手のつけられない乱暴者として知られ、当時すでにペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し、後のカーマニアの片鱗を見せていた。
当時の免許って何歳から取れたのですかね?)

神戸一中での成績は中の下。成績表の素行欄には、『やや傲慢』とか『驕慢 』『怠惰』といった文字が並んでいる。



<イギリス留学>:
神戸一中を卒業後、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し西洋中世史、人類学などを学ぶ。
自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。
ブガッティーって、一億円くらい?ベントレーは2000万円オーバー?どんな生活なんですかね?)

7代目ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称:ロビン)と終生の友となる。
ロビンとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。


1925年(大正14年):ケンブリッジ大学を卒業。


帰国 1928年(昭和3年):
神戸市神戸区(のち中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、帰国を余儀なくされる。

1929年(昭和4年):
英語新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となる。
伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介でその妹・正子と知り合って結婚に至り、京都ホテルで華燭の典を挙げた。
結婚祝いに父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出かけた。その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役(1937年(昭和12年))を歴任する。
(これを『玉の輿』とよびますかね、世間では。でも彼は、こんなところで終わりません)



この間、海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。
またこの頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動する。近衛とは個人的な親交も深く、奔放な息子・文隆の目付役を押しつけられていたこともあった。


<ヨハンセン・グループ>
1940年(昭和15年):東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(のち東京都町田市能ヶ谷町)の古い農家を購入し、
武相荘(ぶあいそう)と名付けて隠棲。


(こちらが武相荘です↓)
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(山梨からは近いですから一度行ってみると、良いですよ。)



農業に励む日々を送る一方で吉田を中心とする宮中反戦グループ「ヨハンセン・グループ」(“よしだはんせん”に因む)に加わる。
終戦連絡中央事務局


1945年(昭和20年):
東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。
次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。


終戦直後、広畑製鐵所(のち新日本製鐵広畑製鐵所)のイギリスへの売却を画策したといわれる。
永野重雄によってこれは免れたが、戦後復興に欠かせない日本最大・最新鋭の製鉄所の外国資本への売却は、賛否が分かれるところである。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に
「その辺にでも置いてくれ」
とプレゼントが、ぞんざいに扱われたために激怒して
「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」
と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたといわれる。
(これ、初めて知ったときは、やられましたね)



<憲法改正>
同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。

1946年(昭和21年))2月13日:
松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。
次郎は2月15日にGHQ草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡を出し時間を得ようとするが、これはGHQから不必要な遅滞は許されないと言明される。

(この頃、自分たちで憲法を作る!と必死になってた彼らですが、結果はGHQの作ったものになってしまったわけです。このあたりの苦労なんかも、本では凄く事細かに闘いが描写されてました。後年、白洲次郎は
「あれは、確かに押し付けられたものだが、よくよく見ると非常に良くできている」と、また「自分たちの作った憲法が欲しいと思うのは当然」とも言ってたそうです)


同年3月:
終連次長に就任。


同年8月:
経済安定本部次長に就任。


1947年(昭和22年)6月18日:
終連次長を退任する。


貿易庁初代長官
1948年(昭和23年)12月1日:
商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。
商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。


(実際、ここで白州次郎は凄く輝く働きをしますと、ワタシが読んだ本には記載がありました。「通産省創設」って、書けば一行ですが、これにより戦後の復興がいかになされたか。汚職まみれの貿易省を立て直すために任命したのが、マッカーサーってのもいい。結局汚職は消えないから、その省を廃止にして、新しい省を作っちまうんだから、なんか痛快です。先日の某局のドラマでも車産業を押し上げ、世界に通用する業界にしたのは、通産省なしにはありえなかったと思いました。なんというか先見が素晴らしいんですよね)



この年、米軍が戦時に攻撃を避け、占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の広畑製鐵所が、日本側に返還されることになった。
次郎はイギリスに売却を主唱するも、永野重雄の反対によって頓挫した。
永野は「(広畑製鐵所を)取れなかったら腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と啖呵を切ったとされる。その後、次郎と永野はその後銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなり、永野が次郎の顔を机に押さえつけた逸話も残る。


1950年(昭和25年):
講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。


1951年(昭和26年)9月:
サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。
この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒

「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!!!」と一喝、

受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。
(このあたり、カッコイイと思ってしまうのです、やはり)


1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日:
外務省顧問を務めた。
吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻る。



<実業界へ復帰>
既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた次郎は、1951年(昭和26年)5月に東北電力会長に就任する。
就任の同年福島県の只見川流域が只見特定地域総合開発計画に指定されたことから1959年(昭和34年)に退任するまで、只見川流域の電源開発事業に精力的に動き奥只見ダムなどの建設を推進した。
また、9電力体制を作った「電力王・電力の鬼」松永安左エ門の私的シンクタンク・産業計画会議の委員に就任した。
東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(のちマルハ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。

老年期に入ると「軽井沢ゴルフ倶楽部」理事長となった。
イギリス時代からゴルフに親しんでいた白州次郎は、英国風のゴルフ場を築き上げるために情熱をそそいだ。
(紳士のスポーツ精神ってやつですかね:エピソードから伺えます)



<死去> :
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回しゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。
同年11月28日死去。  83歳没。   墓所は兵庫県三田市の心月院である。
夫人の正子と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。
実はこの遺言書のフレーズは、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じであった。

そして次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていない。


<オイリー・ボーイ>:
白洲の車好きは有名である。
イギリス留学中に「ベントレー」や「ブガッティ」を乗り回し、「オイリー・ボーイ」(オイルにまみれるほどの車好き)と呼ばれていた。ロンドンから1時間ほどのレーシングコース「ブルックランド」においてベントレーで快走していた。

また、2代目トヨタ・ソアラの開発に際しては事実上のアドバイザー役を務めた。


<主な車歴>
・1919年型ペイジ・グレンブルック - 中学生時代に使用。
・1924年型ベントレー3リッター - イギリス留学中に所有。後にエンジンを4.1/2リッターに載せかえるなどされたが、その後日本に持ち込まれ、現在は株式会社ワク井商会が所有している。
・ブガッティ・タイプ35 - イギリス留学中に所有。イギリスに現存。
・ランチア・ラムダ
・ハンバー・ホーク
・ランドローバー
・三菱・ジープ
・1960年型メルセデス・ベンツ450
・三菱・ミラージュ - 晩年、ショーファードリブンとして使用していた。
・トヨタ・ソアラ
・スバル・サンバー

・1968年型ポルシェ911S
晩年の愛車。1968年式のエンジンは本来2リッターだが、2.4リッターのものに換装した。ソアラ(2代目)開発の為に寄贈


<エピソード>
1:白洲次郎に関する一次資料はほとんど現存しておらず、実像としての次郎は謎が多い人物である。

2:身長185cm、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある。
(身長についてはNHK番組『その時歴史が動いた』では185cmと紹介されたが、武相荘ホームページメールマガジン2008年12月25日第86号によると175cmとなっている)

3:非常にせっかちな性格の持ち主。その為ゴルフは「プレイ・ファスト」、食事は早食い。酒も手早く済ませたと伝えられている。軽井沢ゴルフ倶楽部では「素振り禁止」と張り紙をしたり、次郎の方から食事に誘った友人よりも早く食べ終えて「早くしろよ」と急かす事もしょっちゅうだった。

4:日本人で初めてジーンズを穿いた人と伝えられている(サンフランシスコ講和条約締結に向かう機内で着用した)。また、ラッパズボンも愛用していた。

5:GHQ民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと褒められたのに「あなたも、もう少し勉強すれば上手くなる」と返した。

(白洲次郎は、ケンブリッジ大学に留学しており、流暢なイギリス英語を話した。そのイギリス英語にはオックスフォード大学とケンブリッジ大学の学生・教員・出身者のみが喋る独特の訛があり、オックスブリッジアクセントと言われる。階級社会であるイギリスでは、オックスブリッジアクセントを喋る者は上流階級としてあらゆる場所で然るべき待遇を受ける。白洲次郎が話す英語は当然、オックスブリッジアクセントであった。アメリカでも、名門とされる大学群であるアイビーリーグですらオックスブリッジを手本に創立された。ホイットニー准将は、アイビーリーグではないジョージワシントン大学出身であり、白洲次郎の「もう少し勉強」と言う言葉は「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学出来てオックスブリッジアクセントを喋る資格を所有できる」、「あなたももう少し勉強すればオックスブリッジアクセントの事が解って、そのような失礼な事を発言しなくなる」などの皮肉が入っていたとされる)

6:結婚当初、正子を「薩摩の奴らは江戸に入城した時は、・・・」とからかったら正子から横っ面に一発ビンタを御見舞いされ、それ以降「薩摩」を揶揄する事はなかったそうである。

7:神戸一中時代に、宝塚歌劇団に10歳位年上のガールフレンドがいた。 (素敵だ)

8:東北電力会長時代、ゴム長を履き自ら車を運転して各地のダム建設現場を回り飯場に泊まり込んで土木作業員やその家族と親しく酒を酌み交わした。
普段の厳しい姿を知っている東北電力社員が畏まっているのとは対照的に作業員の子供は次郎に良く懐き、膝の上に抱かれる事も多かったという。次郎以外の社員には全く寄り付かない子供たちを見て次郎は

「子供には、誰が本当にいい人か分かるんだよ」

と言って笑い、周囲を悔しがらせた。


9:次郎はジョークのセンスもなかなかのものであり、頭は柔らかいが「うるさがたの爺様」だったようである。中曽根康弘が軽井沢ゴルフ倶楽部に立ち寄った際、コースから閉め出されたSPと新聞記者が双眼鏡を用いて中曽根の様子をうかがっていたところ
「なんだ? バードウオッチングか?」
と強烈に皮肉ったといわれている
(当時、中曽根は政治的立場をよく変えるため「風見鶏」と揶揄されていた)


一方で運転手にシューズの紐を結ばせている会員を見かけた時には
「おい、手前ぇには手がないのか!」一喝し、その場で追い返してしまった事もあった。


<ここからは田中角栄とのエピソード>
10:当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえもルールを守るということを第一にした。

次郎が理事を務めるゴルフクラブに、ある日、秘書らしき若者から

秘:「これから田中がプレイしますのでよろしく」

次郎:「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」

秘:「総理の田中です」

次郎:「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」

秘:「会員ではありませんが、総理です」

次郎:「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」

と言い、そっぽを向いたとのことである。



11:クラブのトイレに「洗面所のタオルを無断で持ち出さないでください」という理事長の張り紙があったにもかかわらず無視した田中角栄
「おい、お前は日本語が読めねえのか」
と言った。


12:田中角栄に対してはクラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、
田中が手ぬぐいを腰に差すのは合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。
次郎は田中に対してはその人物を認めつつ、「あの人は若いころあまりにも金に苦労しすぎた」と金銭的に貧しかった境遇に同情していた。



13:田中角栄を批判するばかりではなかった。
ロッキード事件が起こると、各新聞は、「容疑者の田中は…」と書きたてた。

次郎は新聞社の社長に向かって、
「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は4年前彼を今様太閤として『戦後日本が生んだ英雄』とおだてていました。
今、容疑者田中と書くならなぜその前に『本紙はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした』とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」
と主張した。
(こういうのもシビレます)

14:入院した病院で看護師に「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて、

「右利きです。でも夜は左」
(ちなみに“左利き”とは“酒飲み”という意味を持つ。この注意書きが無いと多くの方が誤解しますからね)


16:「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)

17:遺言 「葬式無用、戒名無用」
これは次郎の父が亡くなった時に残した遺言と同じ(反目しあってた親子であったが、遺言は同じ)

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(ここまで飛ばさずに読まれた方、ありがとうございます。少し休憩されますか?「なげーよ!馬鹿!」とか言わないでくだされ。
そして、読んでしまった貴方様は、彼の魅力が少し理解できてるはず!たぶん、きっと)


あと少しです。
で、タイトルです。この日記の。『待ってました、NHKさん』
そうなんです。やるんです。放送するんです。


今年の2月、3月に全3話のうち二話を放映。
二週にわたってのドラマ、全3話の二話を見ました。
(第一話は、録画しておいて、あとで見たのですが)

『クライマーズ・ハイ』も思いましたが、NHKのドラマは期待を裏切らない出来栄えでした。(時々、鼻につく演出もありますが)
色んな意味で「坂本竜馬」とも重なり、非常に面白く見入ってました。
『当初、白州次郎ができる俳優なんかいんのか?』と思ってましたが、伊勢谷友介さん、見ていくうちに似てきてます。 いいです。彼!
奥田瑛二さんも、ああいう役やらせたら天下一品ですね。
(亡くなるときのあれは、まんま「ゴッド・ファーザー」でしたが)

それで、28日、7日と見て、いよいよ来週、クライマックスかと思いきや、
『次回、8月放送予定!!!』って文字が画面に! 『8日の見間違いか?』と思いましたが、違う。
『全3話なのに、最終回が8月くらいってどうなっとんのじゃあ!?NHKさん、そりゃあないでしょう? いったいどうして? 終戦記念日まで引っぱるのか? お願い、早くして!』



なんて怒ったこともありましたが、......そこから待つこと7ヶ月!
ついにやります!「武相荘」も訪問しました!準備万端です!

番組のHP
http://www.nhk.or.jp/drama/shirasujirou/index.html


しかも、3夜連続で初回から!やっと、見れます!嬉しいです。

9月21、22、23日の夜10時から
皆様、お見逃し無く!    -おわり-


追伸:「豆しば~♪」ってCM、あれって何ですかね?
http://www.youtube.com/watch?v=cmSYCOG6mEQ

by sekkeisitu | 2009-08-20 21:59 | それ魅力!